和泉そうめん(安城和泉手延べめん)の歴史

二百年の歴史がある和泉そうめん(安城和泉手延べめん)、そのはじまりと今日に至るまでをまとめました。
江戸時代より安城和泉手延べめんは暑中見舞いとして使われていたのですね。

和泉そうめんのはじまりと広がり

写真:明治村史(下巻)表紙

和泉そうめんのはじまり

天明の大飢饉(1782年~1788年)のとき、彦根付近でそうめん作りを習って来た人が鷲塚村(碧南市)に技術を持ち帰ってきたということを聞き伝え、その人に就いてそうめんの製法を習い覚えたのが和泉そうめんのはじまりです。この和泉そうめんが広く知れ渡るようになったのは、同時期頃に出てきた「棒手振り」の影響が大きいといわれています。

写真:明治村史(下巻)の中身

行商人「棒手振り」

「棒手振り」とは天秤棒一本に頼って商売をする行商人のことです。和泉村では外商が盛んでした。そこに、塩干魚などの海産物を主として、その他あらゆる商品を販売する「棒手振り」がでてきて、三河全域にわたって販路を拡大していきました。中には、信州まで進出していたという記録もあるほど、「棒手振り」は商魂のたくましい人たちだったようです。

暑中見舞いとして

和泉村庄屋都築孫助が重原藩への暑中見舞品として素麺を使っています。この素麺が好評で、その後、毎年陣屋の暑中見舞いに贈呈するほか、藩内の庄屋連中にも素麺料理の招待をしていたほどです。

伝統の技法を守り続けて

昭和になり食糧事情も緩和され、急激な経済成長に伴いピーク時80戸程あった生産戸数も減少し、昭和40年頃には2~3戸までに激減しました。現在では「和泉手延べめん」として生産し販売している生産業者は10数戸ほどになりましたが、古来からの伝統的製造方法を継承し、「伝統の手延べ半生長そうめん」を製造出来る生産業者は数えるほどしかなくなりました。そのような状況のなか、早川製麺所は二百年続く伝統の技と味を守り続けています。

写真:手延べの様子

参考資料:明治村史

通常、素麺は冬場に吹く乾燥した風で素麺を乾燥させますが、和泉そうめんは夏の暑い日差しで乾燥させ、夕方頃から吹く三河湾の湿った南東の風で「半生」の状態に戻します。この独特の半生戻し製法を生み出したのも、和泉村の人々の知恵ではないかと思います。この伝統の製法は是非守り続けて欲しいと願っています。